大林宣彦監督からの
コメント

 映画を見る、ということは一つの体験だが、ちょっと不思議な、新しい体験をした。それは嬉しい体験だった。
 それはつまり、フィルムの時代の映画の体験には無い、新しいデジタルムービーが定着して来たこの時代、デジタルがようやく映画を発見し始めたかという、一種の感動であった。

 フィルムの時代には、ウソカラ出タマコト、即ち「虚」なる映像から如何に「真実」を導き出すためにそれを信じるか、が物語を紡ぐ秘訣である。
ところが本来が情報装置であるデジタルでは、そこにある映像は端から「実」であり、「真実」などとは無縁の存在である。故になかなか物語としての充足感に達し得ない恨みがあり、フィルム信仰は未練のようにわだかまっていた。

 そこにデジタルムービーの未来を予測し、一つの道を開拓してみせたのが、『Every Day』である。
 つまり、フィルムでは、そこに在る映像(虚)を如何に信じるか、から始まったものを、今度はデジタルの、そこに在る映像(実)を如何に疑うか、そのことによってまたデジタルなりの「真実」を手繰り寄せる筋道なのではないか。そのフィロソフィーの発見である。題名がまず『Every Day』、即ち「日常」。ここでフィルムの時代の映画の、非日常と見事に対峙する。そして演技。この俳優陣による仕草、ダイアローグ廻しが、極めて計算されて、日常に寄り添い尽くしている。そしてそれが生み出す不条理が、現代における「真実」を炙り出してゆく。
 フィルムの時代の聖地・小津安二郎作品のそれとは、全く異なるアプローチである。
 映画が示す究極の主題は、愛である。目に見えるもの(虚)を如何に信じるか、で愛の物語を手繰り寄せようと試みたかつてのフィルムの時代を超えて、ここでは現代のデジタルムービーが、目に見えるもの(実)を如何に疑うかとい目差しでもって、この時代にこそ絵が描かれるべき愛の物語を紡ぎ出そうとする。
 その切実さが、まことに愛おしい。
 この現代に、映画は存在し得るのか? はたまた愛の物語は? その問いに、この『Every Day』はまことに、見事に応えて見せている。
 在りますよ、ほら! と。
 手塚悟という新しい時代の映画が描いてきた数かずの愛の物語に憧憬し、良く学び、その上でこのデジタル化した時代のなかで、未練ではなく、ノスタルジィでもなく、現代の愛の形を弄ろうとする、その切迫感が生んだ、これは現代の佳品。
 演出、編集のディテールから、総体としてこの一本の映画として纏め上げられた『Every Day』なる映画を、是非良く解読して戴きたい。
 この『Every Day』を見るという体験は、この不毛な時代に、僕らにある未来の夢を、信じさせてくれるに違いないと、僕は信じるから。
 手塚悟君とその仲間たち、おめでとう!
 そして有難う!
大林宣彦(映画作家)