手塚悟監督インタビュー

“日々を追っていく”
この映画の目指すべきところは、そこに向いているのかもしれない。

――主人公と昏睡状態にある恋人の<終わりと始まり>の7日間を描いた物語。本作は、風でアルバムがめくれるようにして進んでいきます。1日が過ぎるたびにページがめくれ、日常が積み重なっていくことで、登場人物たちから零れ落ちるセリフ、表情、感情のすべてが徐々に重みとなって心の奥へと突き刺さっていきました。日々の、一瞬一瞬の想いを短く切り取りながら追っていく。こういった見せ方は、初めから考えていたのでしょうか?

「アルバム」というアイディア自体は後付けでした。曜日ごとに展開していくという考えは脚本の段階からありましたが、最初は黒で1回閉じて、すぐに場面を変えようかと思っていました。ただし、そんな中、いざ編集作業をするときになって、あれは撮影が終わった後、3年前のことですね。脳梗塞で倒れてしまって。そのときにたくさんの人たちが病院までお見舞いに来てくださり、その中にスチール担当の竹下修平さんもいらっしゃって、差し入れにヒロインの山本さんの写真で構成された小さな写真集をいただいたんです。病院にいる時はとにかく動けなかったので、それを毎日眺めるのが楽しくて。それが、頭の中に刷り込まれていたのでしょうか。退院後に改めて編集作業をするときになって自然と、ふっと「アルバム」というアイディアが思い浮かびました。

――「アルバム」という形式だとバラバラなシーンのつなぎ合わせが「記録の集合体」として見えてくる、時間の経過が絆の強さとして表れてきているように感じられました。

そもそも、クランク・インまでに脚本が綺麗に出来上がってはいなかったので、現場では完全に全部の台本をキャスト陣に渡していたわけではありませんでした。加えて、主演の永野さん他、映像、舞台と各方面でご活躍されていらっしゃる多忙な方々ばかりに出演をお願いしていたので、撮影日の調整は毎回ギリギリで、撮影順序もバラバラで。だから、編集については撮っている最中から難しくなるなぁと思っていました。
ただ、この「めくり」の演出については、場面と場面をつなげるだけではなくて、映画の完成に向けたターニングポイントにもなったと思っています。すべてを説明しすぎることなく、現実的な心情とファンタジーのような設定をうまくつなげる役割を果たせたような気がしています。

――それは、彼女が交通事故にあうシーンを直接描こうとはしていない、または病室のベッドに横たわる彼女の痛々しい描写をあえて映そうとはしていないことにも関係していますか?

そうですね。結局、事故のシーンはシナリオにないし、撮影もしていないので、主人公がいくら恋人のことを想ってセリフを発してもリアリティのないまま本編が進行しているような気がしていました。けれども、予算的に言っても、しっかりとしたセットが組めない以上は交通事故というシーンを中途半端に撮影するべきではないと思っていましたし、それに、このお話自体は別に「事故」がポイントというわけでは決してなくて、生きている我々の近いところで、例え事故がなくたって「日々」はとても大切で、特別なことであるということを見ている人たちに感じてもらいたかったという気持ちもあります。
なので、意図としては、逆に身体的に痛々しい描写はむしろ邪魔になるのかなぁと。実際はすごい画づらで、傷もガンガンで、酸素ボンベを着けていて、でも、そこは想像をしてもらいたい。逆に、今見えている、綺麗な画面から何を感じるのか、というところでしょうか。
ですので、最終的にあの「めくり」によって、パトランプが点いたり、彼女が持っていた花束が路上に落ちたりと、勢いよくパラパラと想像をかきたてるショットが連なることで事故のシーンが独特の緊張感と共に描けたときに、あ、これはいけるかも!と思いました。山本さんが坂をくだっているところ、あのシーンが出来上がったときに、本作が醸しだす、現実とも非現実ともとれる独特の雰囲気が生まれたように感じました。

気配。この世界には、身の回りには、目に見えないけれども、
何か自分自身に作用するものが存在する。その「気配」を、演出したかった。

――手塚監督が病院を退院されて、再び編集作業に入る段になって、前述の「アルバム」のように、追加で思いついたこと、追撮や脚本の加筆等はありましたか?

追撮をしたのは、それこそアルバムの「めくり」のシーンと、街を歩く群衆といったつなぎのシーンだけでした。まあ、一応、ベッドに寝ている山本さんのシーンも以前に撮ってはいたんですけれど、やはり浮いちゃうんですよね。急に現実がぽーんとスクリーンに入ってくると。そういったシーンを見せない理由は前述の通りありましたし、最後まで見せない方向でいこうかと。

――手塚監督のフィルモグラフィーを見ると、『つるかめのように』(2009)『WATER』(2012)のように、“死”を取り扱った作品がいくつか見受けられますが、なにかそこに感じるものがあるのでしょうか?

特にないです(笑)ただ、強いて言うとすれば、僕自身は一人っ子で、どうしても自分の肉親がいつかいなくなるということを昔から無意識に自覚していました。その恐怖が、どうしてもある。後ろに張り付いている感じでしょうか。喪失、亡くなること、いなくなることへの根源的な恐怖みたいなものは日々感じています。

――『つるかめのように』でも、本作でも、観客からは「ホラー映画のような、どこか生々しい“怖さ”がある」と言われたとのことでしたが?

テーマ的には、本作を「お涙頂戴」風に書けたりもするのですが、私自身は“感動”というよりも“恐怖”で書いている気持ちがちょっと強かったかもしれません。 たとえ目の前に人がたくさん集まっていても、それはずっと続くわけではないってことが、もう絶対的にありますから。なんか、そういう気持ちが表われているというか。ちょっとしたテンポだったり、見せ方だったり。いるのにいないってこととか、いないのにいるってことにつながっているような。本作で言うと、まさに昏睡状態のはずの恋人が台所にふっと現われる。その彼女と会話をする主人公。ちょっと一瞬気を抜くと、すごい怖いらしいです。表情から死のにおいを感じるっていわれることもあります。

――撮影現場で、何か演出として気をつけたところはありますか?

一応、ある程度のしばりは設けました。うかつにタッチしたり、抱きついたり、キスしたり、そういうことはしないようにと。結局、やっぱり主人公からしても、目の前で起こっていることが現実なのかどうかが分からない。そしてお客さんからしても、すべては主人公の妄想なのかなっていうところになにか感じるものがあるのかと思います。彼女を失うことの怖さもありますが、良く分からないもの自体への恐怖もあるというか。“気配”というキーワードを撮影現場でよく使っていたことを覚えています。

ふわっとしていて、現実を忘れさせてくれるんだけど、
「どうやって生きていくのか」しっかりと現実を見させる。そこに、本作の肝がある。

――風に揺れるカーテンや、外から差し込む陽光、不意に鳴り響くピアノの音色など、刻々と移ろう弛まぬ時間の流れがそこはかとなく演出として散りばめられていたように感じました。

オープニングの山本真由美さんによる鼻歌も、そうですね、風がカーテンに揺れると仰られましたが、あれに近い感じのものを音的になにかやりたいと思い、編集作業の最後に挿入しました。鼻歌って、結構浮ついているというか、なにか“気配”というものを音で出してみたかった。すぐそこに感じられるんだけど、捉えられない。人間の感情も、時の流れも、本来目に見えないものなので、アルバムの「めくり」と同様に、観客の心にひっかかるものを少しずつ入れていきたいと思っていました。

――劇中で使用されているharuka nakamuraさんのピアノの音色が、なにかこう、ふわっとその場を包み込むようでいて、ドキリと心臓をえぐるような、同じ曲が繰り返し使われているにも関わらず、シーン毎に異なった旋律のように聴こえました。

今回の音楽作業のやり方は少し変わっていて、通常はこことここの部分に音楽が欲しいというオーダーになりますが、こちらが先に映像をお渡しして、30曲くらい送られてきたのですが、結果的に13か所でそれらの楽曲から選んで使用させてもらいました。ただし、曲自体は同じように聞こえていても、そのどれもが微妙に違っている。言い方は悪くなりますが、微妙にノイズまじりなんです。綺麗に録音されたものもあったのですが、実際に映像にハメてみたらノイズ混じりのもののほうが良くて。
日常の音と言いますか、同じときはひとつとしてないと言いますか、不思議な生々しさが映像と上手く噛み合わさっていたように感じます。

――倉田大輔さんとこいけけいこさんが演じたカップルが特に思い入れの強いキャラクターとのことですが?

本作を、余命いくばくもない女性と取り残された男性という、ただの浮ついたラブストーリーにすることもできたのですが、しかし、しっかりと今いる現実に落とし込む、観るものの心をかきたてる作品にするためには、あの二人のキャラクターがとても重要でした。フィクションと現実、やっぱり難しいのですが、上手くバランスをとることは映画としてとても大切なことだと思っています。

――「あたしは三井を信じる。見えるから信じるんじゃない。信じるから見えるの」。そこにいるはずのない恋人の姿が見えると言う主人公に対して、こいけさんがいうセリフ。これを真っ向から否定する倉田さん。それでは、潰れそうになったそのときに、人はどうしたらいいのだろうか……。「そのときは、俺たちの出番だろ」。倉田さんのこのセリフが、とても好きです。『Every Day』という映画自体がその役割を担っているような。でも、こいけさんのセリフもとても優しくて、大好きです。

倉田さんに関しては、初めからご出演していただこうと考えていました。客観的な立ち位置から、倉田さんのように厳しく言ってくれる人がいたり、こいけさんのように優しいことを言ってくれる人がこの映画には必要だと感じていて。試写会でも、先行上映会の観客からのアンケートではお二人のキャラクターが出番少ないながらもとても好評を得ていました。
本当は、もっと時間があったらスピンオフを撮ったりしてみたいんです(笑) こいけさんと倉田さんとか、牛水さんと土屋さんとか。あるいは、主人公と牛水さんの過去談とか。結構、単なる1本として撮ったというわけではなくて、本当にみんなそれぞれに背景があって、愛着があります。

関係性っていうのは、すごく大事にしたかった。
観終わった後に、何か、得体のしれない、その先が見えるような。

――手塚監督のこれまでの過去作よりも、本作は割と会話が多いような気がします。こいけさん、倉田さんの他にも、牛水美里さん、山内健司さん等々、それぞれが主人公に言葉を投げかけていくことで、そのリアクションから彼の焦れた感情が浮き彫りになっていくように感じられました。前述の“気配”というもの以外で、なにかキャストに意識してもらったことはありますか?

撮影中は、特にガチガチの演出を施したということは一切ないです。今回は、本当に一緒にお仕事をしたい方々、尊敬する方々にお声がけさせていただいて実現した現場でしたので、各々を信頼する部分も多く、ほとんど1テイクでOKとなりました。
ただ、強いて言うとすれば、キャストの皆さまには事前に集まってもらい、読み合わせの段階からきっちりと話すということをしてもらいました。特に主演の二人にはとにかく仮原稿であっても話し合ってもらったり、職場のシーンではみんなを集めて会社的な飲み会をやってもらうなど、時間の共有を図ったりしました。

――手塚監督の他作品郡にも頻繁に登場する「食事」のシーンは、登場人物たちの関係性をあらわすひとつのアイコンのようなものなのでしょうか?

本作の場合は、食事のシーンはそこまで多くはないですが、まあ、当たり前のことながら、悲しくても辛くても、人は食事をしますからね。そこは毎回、必要な場面として意識的に撮ろうとは思っています。 また、お弁当も、おむすびも、人の手が加えられたものである以上は、そこにもまた、人の“気配”が感じられると言いますか。見えない想いが可視化されることで、訴えてくるものもまた大きくなると思っています。

観た人たちによって変換されていく。本作はそういうところに力があるし、
逆に、自分たちはそこから力をもらっている。

――ラストシーンが、いつまでも忘れられません。様々な解釈ができるシーンかと思われますが、手塚監督ご自身としては、率直に言って、あのシーンをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか?

私自身の病気があり、そしてその後に母親を亡くしてしばし思うところも多々あったのですが、撮る前と撮った後で、特に結末を変えるというようなことはしませんでした。
それだけに、当初考えていたものと今改めて思う自分の感想が全く違っていることに、少なからず驚きを覚えています。
つくっているときは、とあるひとつの設定があった上で撮影をしていたのですが、なにか、今の自分自身にとっても、劇場に来てくださったお客様にとっても、それぞれに異なる解釈が生まれている。上映後の感想では、本当に毎回様々なお言葉をいただいております。
それでも、まあ、うん、分かんないんですよね、結局。自分でつくっておきながら。この結末の捉え方って、日々想定を超えていっているんです。そこは、まあ、ちょっと謎のままにしておきたいというか。

――最後に、今、この映画が公開されることについて、何を思われますか?

撮影が終わってから3年が経って、3年って、考え方も変わるじゃないですか。3年は、人によっては早いと言うかもしれませんが、でも、色んなことがあって当然な時間だと思うんです。考え方とか、生活とか、人生観っていうか、色々なものが変わっていく。
私は、特に病気で倒れたある1年間という、ある種止まっていたような時間がありますから、過ぎ去った時間は2年だと思っていても、ああ、もう1年流れていたんだとふと思い返してしまうときもあります。
それでも、まあ、こうして劇場公開にたどり着くことができて、関係者一同本当にうれしく思っています。私自身、映画を客観的に見て感じることもとても多くありましたし、本作を見てくださる皆様にとって、映画が何か「特別なもの」になってくださることを、深く願っております。

取材・文・大久保渉(ライター)